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一遍上人(いっぺんしょうにん)とは
人物
一遍上人像(京都・長楽寺)
一遍上人とは、時宗の開祖で伊予国(現在の愛媛県)道後に、地元の豪族・河野通広の子として生まれた。祖父の代からの鎌倉幕府の実力者の家系である。
しかし、承久の変で朝廷側についたため、敗れて没落、さらに一遍上人は十歳のときに母を失う悲運に見舞われた。
そのため十歳で出家、十三歳で大宰府の聖達(法然上人の孫弟子)の弟子となり、途中、肥前・清水寺の華台のもとに預けられて「智真(ちしん)」の名を与えられるが、再び聖達のもとに戻って、そこで約十年の修行をした。
一遍上人が、“浄土教”の信仰を身につけたのはこの期間である。法然、証空、師・聖達とつづく“浄土教”の教えを骨の髄まで沁みこませたのである。
その後、父の死などがあってしばらく還俗(げんぞく)していた一遍上人は、数年後に再び出家し、地元の窪寺で約三年にわたる修行を重ね、阿弥陀仏のさとりと衆生の救済とは同時のものであって、これを可能にするのは「南無阿弥陀佛」の名号であることをさとった。そして郷里近くの岩屋にこもり、さらに念仏修行の日々を送った。
それから、郷里・伊予を離れた一遍上人は、難波(大阪)の天王寺、高野山と歴訪をつづけながら、一般の人々(衆生)に念仏を説きすすめてまわったのである。
以後、一遍上人は過度の衣・食・住、郷里、家族などすべてを捨てて、一所不在の遊行生活を送ることになる。彼が「捨聖(すてひじり)」また「遊行上人」と呼ばれたのは、そのためである。
背中には「十二光箱」と呼ばれる箱が背負われていた。これは、遊行生活に最低限必要な衣、足駄、頭巾などを納めるための箱で、夜ねるときには尼僧との間に置いて“隔て”としても使われたという。
“賦算”と“踊り念仏”
“賦算(ふさん)”のお札
こうして念仏を説きすすめての遊行生活に入った一遍上人だったが、胸中には大きなジレンマがあった。人々に救済の道としての念仏を教えるのはよい。しかし、それが拒否された場合には、どうしたらよいか、……というものである。
そこで、熊野神に教えを乞うたところ、返ってきた答えが、「信不信、浄不浄を問わず、ただ教えをひろめよ」というものだった。
この熊野権現(くまのごんげん)の神託を受けた時を時宗の開宗とする。1274年のことである。
一遍上人は天啓を受けた思いで、独自の実践していた布教方法を確信のものとする。それが、小さな紙片に「南無阿弥陀佛決定往生六十万人」と記した札を配り歩く“賦算(ふさん)”というものである。
やがて、四国・九州・瀬戸内・京都・信濃……と遊行して歩くうちに、一遍上人を慕う人々があとにぞろぞろとつづくようになり(この人たちを“時衆(じしゅう)”と呼んだ)、“賦算”に“踊り念仏”がプラスされて、一遍上人独自の布教スタイルが完成され、人気も爆発的に高まっていくことになる。
「南無阿弥陀佛」の名号をとなえながら踊る“踊り念仏”は“盆踊り”のルーツとする見解もある。
国宝 一遍聖絵 第七巻 (東京国立博物館) 四条京極の釈迦堂の様子
その人気が頂点に達したのは、鎌倉、東海道をへて、京に上ったときである。
四条京極の釈迦堂に赴いた際は、あまりの群衆に身動きもかなわぬほどであったと伝えられている。
その後、平安時代の念仏僧・教信(きょうしん)ゆかりの教信寺、平安時代の遊行僧・性空(しょうくう)ゆかりの書写山などを歴訪し、備中・備後・四国へと遊行、兵庫観音堂(現在の真光寺)に渡って、そこで入滅した。五十一歳だった。辞世のことばは、次のようなものだったという。「一代聖教みなつきて、南無阿弥陀佛になりはてぬ」……。
持っていた経典や書物を焼いてしまい、「南無阿弥陀佛」の名号のみが自分にとって必要なものであることを示した。
こうした一遍上人だが、自分が開祖になろうというつもりはまったく無く、人々が念仏を称えて救われることだけを願ったのだ。
弟子の二祖他阿真教上人が宗派としての基盤をつくり、組織を確立していった。
一遍上人の理想は市の聖と呼ばれた「空也上人」であった。事実、一遍上人は空也上人を「わが先達(せんだつ)なり」と崇め慕っている。空也上人に、“遊行僧”のあるべき姿を見て取っていたのだろう。
そして、宗教上の理想としていたのが、いうまでもなく、<法然ー親鸞ー一遍>とつながる“浄土宗”の教え、なかでも「口称念仏(くしょうねんぶつ)」によるさとりの境地であった。
浄土宗の法然上人の教えは、さとりにいたるいくつかの方法のなかから、とくに念仏を選び取る選択念仏(せんじゃくねんぶつ)というものであり、浄土真宗の親鸞上人は、阿弥陀如来への信心が起きた時点ですでに救われると説いたのに対し、一遍上人はさらに進んで、「南無阿弥陀佛」という名号そのものに絶対的な力がある、と説いたのである。
幼少期は松寿丸(しょうじゅまる)といい、後には智真(ちしん)、遊行上人(ゆぎょうしょうにん)、捨聖(すてひじり)、円照大師(えんしょうだいし)、証誠大師(しょうじょうだいし)などとも呼ばれる。
時宗の開祖、一遍上人の著作はないが、勢至菩薩(せいしぼさつ)の生まれ変わりという伝説は有名である。
24/09/15
24/09/14
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人物
一遍上人像(京都・長楽寺)
一遍上人とは、時宗の開祖で伊予国(現在の愛媛県)道後に、地元の豪族・河野通広の子として生まれた。祖父の代からの鎌倉幕府の実力者の家系である。
しかし、承久の変で朝廷側についたため、敗れて没落、さらに一遍上人は十歳のときに母を失う悲運に見舞われた。
そのため十歳で出家、十三歳で大宰府の聖達(法然上人の孫弟子)の弟子となり、途中、肥前・清水寺の華台のもとに預けられて「智真(ちしん)」の名を与えられるが、再び聖達のもとに戻って、そこで約十年の修行をした。
一遍上人が、“浄土教”の信仰を身につけたのはこの期間である。法然、証空、師・聖達とつづく“浄土教”の教えを骨の髄まで沁みこませたのである。
「捨聖」「遊行僧」としての出発
その後、父の死などがあってしばらく還俗(げんぞく)していた一遍上人は、数年後に再び出家し、地元の窪寺で約三年にわたる修行を重ね、阿弥陀仏のさとりと衆生の救済とは同時のものであって、これを可能にするのは「南無阿弥陀佛」の名号であることをさとった。そして郷里近くの岩屋にこもり、さらに念仏修行の日々を送った。
それから、郷里・伊予を離れた一遍上人は、難波(大阪)の天王寺、高野山と歴訪をつづけながら、一般の人々(衆生)に念仏を説きすすめてまわったのである。
以後、一遍上人は過度の衣・食・住、郷里、家族などすべてを捨てて、一所不在の遊行生活を送ることになる。彼が「捨聖(すてひじり)」また「遊行上人」と呼ばれたのは、そのためである。
背中には「十二光箱」と呼ばれる箱が背負われていた。これは、遊行生活に最低限必要な衣、足駄、頭巾などを納めるための箱で、夜ねるときには尼僧との間に置いて“隔て”としても使われたという。
“賦算”と“踊り念仏”
“賦算(ふさん)”のお札
こうして念仏を説きすすめての遊行生活に入った一遍上人だったが、胸中には大きなジレンマがあった。人々に救済の道としての念仏を教えるのはよい。しかし、それが拒否された場合には、どうしたらよいか、……というものである。
そこで、熊野神に教えを乞うたところ、返ってきた答えが、「信不信、浄不浄を問わず、ただ教えをひろめよ」というものだった。
この熊野権現(くまのごんげん)の神託を受けた時を時宗の開宗とする。1274年のことである。
一遍上人は天啓を受けた思いで、独自の実践していた布教方法を確信のものとする。それが、小さな紙片に「南無阿弥陀佛決定往生六十万人」と記した札を配り歩く“賦算(ふさん)”というものである。
やがて、四国・九州・瀬戸内・京都・信濃……と遊行して歩くうちに、一遍上人を慕う人々があとにぞろぞろとつづくようになり(この人たちを“時衆(じしゅう)”と呼んだ)、“賦算”に“踊り念仏”がプラスされて、一遍上人独自の布教スタイルが完成され、人気も爆発的に高まっていくことになる。
「南無阿弥陀佛」の名号をとなえながら踊る“踊り念仏”は“盆踊り”のルーツとする見解もある。
「一代聖教みなつきて……」
国宝 一遍聖絵 第七巻 (東京国立博物館) 四条京極の釈迦堂の様子
その人気が頂点に達したのは、鎌倉、東海道をへて、京に上ったときである。
四条京極の釈迦堂に赴いた際は、あまりの群衆に身動きもかなわぬほどであったと伝えられている。
その後、平安時代の念仏僧・教信(きょうしん)ゆかりの教信寺、平安時代の遊行僧・性空(しょうくう)ゆかりの書写山などを歴訪し、備中・備後・四国へと遊行、兵庫観音堂(現在の真光寺)に渡って、そこで入滅した。五十一歳だった。辞世のことばは、次のようなものだったという。「一代聖教みなつきて、南無阿弥陀佛になりはてぬ」……。
持っていた経典や書物を焼いてしまい、「南無阿弥陀佛」の名号のみが自分にとって必要なものであることを示した。
こうした一遍上人だが、自分が開祖になろうというつもりはまったく無く、人々が念仏を称えて救われることだけを願ったのだ。
弟子の二祖他阿真教上人が宗派としての基盤をつくり、組織を確立していった。
思想
一遍上人の理想は市の聖と呼ばれた「空也上人」であった。事実、一遍上人は空也上人を「わが先達(せんだつ)なり」と崇め慕っている。空也上人に、“遊行僧”のあるべき姿を見て取っていたのだろう。
そして、宗教上の理想としていたのが、いうまでもなく、<法然ー親鸞ー一遍>とつながる“浄土宗”の教え、なかでも「口称念仏(くしょうねんぶつ)」によるさとりの境地であった。
浄土宗の法然上人の教えは、さとりにいたるいくつかの方法のなかから、とくに念仏を選び取る選択念仏(せんじゃくねんぶつ)というものであり、浄土真宗の親鸞上人は、阿弥陀如来への信心が起きた時点ですでに救われると説いたのに対し、一遍上人はさらに進んで、「南無阿弥陀佛」という名号そのものに絶対的な力がある、と説いたのである。
幼少期は松寿丸(しょうじゅまる)といい、後には智真(ちしん)、遊行上人(ゆぎょうしょうにん)、捨聖(すてひじり)、円照大師(えんしょうだいし)、証誠大師(しょうじょうだいし)などとも呼ばれる。
時宗の開祖、一遍上人の著作はないが、勢至菩薩(せいしぼさつ)の生まれ変わりという伝説は有名である。