納骨堂を備えた大阪の由緒ある当院がご紹介する仏事あ.ら.かると
06-6472-4867
〒555-0032 大阪府大阪市西淀川区大和田5-17-7
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仏事あ.ら.かると
主な参考文献『仏教早わかり百科』監修ひろさちや(主婦と生活社)・『史上最強図解仏教入門』監修保坂俊司(ナツメ社)・『イラストでわかるやさしい仏教』監修大角修(成美堂出版)・『知識ゼロからの仏教入門』著者長田幸康(幻冬舎)・『仏教早わかりエッセンス事典』著者現代仏教を考える会(土屋書店)
一般に、除夜の鐘が鳴り終わってから、松の内(一月七日まで)に寺社にお参りすることを初詣でといっている。
大晦日の晩、鐘の音とともにくりだした老若男女・善男善女が、寺や神社に詰めかける。お参りの人々は賽銭を投げて、新年を祝い、一年の無事を祈る。寺社ではお守りやお札を授けたり、祈祷や祈願などを行う。古くから続いている日本の年頭行事である。松のとれる七日頃まで、こうした風景が全国いたるところで見られる。
かつては、年の神のやってくる恵方(えほう)の方角にある寺社にお参りするのがよいとされ、「恵方参り」の名もある。一方、大晦日の夜に神社籠りする風習もあり、これが初詣でに通じていると考えられる。
近年では、宗教的な意味合いがとみに薄れ、一部の有名寺社に多くの初詣者が集中する傾向があるが、自分の信仰する寺社に参詣するのが本来である。
「成道会(じょうどうえ)」とは、御釈迦様が菩提樹の下でさとりを開いたとされる日を記念して行う法会である。
御釈迦様は、一国の太子として恵まれて生活を送っていたが、人の「老・病・死」を見て無常を感じ、二九歳のとき一切を捨てて出家修行の道を歩み始める。六年間にわたる苦しく厳しい精進の末、苦行ではさとりは得られないと思い至り、尼蓮禅河(にれんぜんが)で沐浴し、村の娘から牛乳粥の供養を受けて元気を取り戻す。そして、ほとりの村の菩提樹の下に坐して沈思瞑想し、ついに大悟(たいご)する。これを「成道」という。お釈迦様三五歳、一二月八日朝のことだったと伝えられる。
このため一二月(臘(ろう)という)八日を強調して「臘八会(ろうはちえ)」とも称する。
「成道会」は、“釈尊の三大法会”のひとつとして重んじられ、各宗派で行事が行われるが、特に禅宗の「臘八接心(ろうはちせっしん)」が有名。福井の永平寺、京都の妙心寺、鎌倉の円覚寺などでは、御釈迦様の修行をしのんで、雲水(うんすい)たちが一二月一日から八日朝までほとんど不眠不休で座禅を続ける。一般の禅寺でも座禅会が催されたりする。
※「臘八接心」では座禅会とともに「臘八粥」あるいは「五味粥」「温臓粥」といって、みそや酒かす、串柿、昆布、菜などを入れた粥を食べる習わしがある。これはお釈迦様が牛乳粥で疲れを癒した故事にちなんだものといわれる。
「除夜」とは「旧年を除く夜」という意味で、十二月三十一日の夜をいう。
各寺院では、この夜、去りゆく一年を反省し、新しい年の幸福を祈願して法要を行う。その後、年の明ける午前零時から百八つの「除夜の鐘」をつく。これによって、百八つの煩悩を除くのだともいわれる。
家庭でも、古くは、先祖を祀り一年の無事を感謝して宴を開いたとも伝えられるが、今は「年越しそば」を食べる風習が残っているくらいである。
この「年越しそば」は、そばのように細く長く生きることを願ったものと、職人が金粉を集めるのにそば粉をつかったところから、“金が集まる”に通じるからともいわれる。
『阿弥陀経』は西方極楽浄土のすばらしさを説いたお経で、正しくは『仏説阿弥陀経』という。また『小無量寿経』『小経』ともいう。『仏説無量寿経』『仏説観無量寿経』と合わせて、浄土三部経といわれ、浄土教では最も重要な経典である。『阿弥陀経』は極楽浄土についてお釈迦さまが説いたことをまとめたものである。
極楽浄土がどんなところか、またどうすれば極楽浄土に往生できるかを延々と述べている。『阿弥陀経』は「如是我聞(にょぜがもん)」という言葉からはじまる。
これは“私はこのようにお釈迦さまの教えを聞きました”という意味で、つまり弟子たちがお釈迦様の言葉をまとめたことを示す。
ここではお釈迦さまは、舎利弗(しゃりほつ)をはじめとする1250人もの弟子たちを前に語りかけている。西の10万億の仏の国々を超えたところに極楽浄土があり、そこには阿弥陀仏という仏がいることや、さまざまな金銀財宝で飾られた国であることを具体的に描写している。
さらにここに生まれるためには、一心に「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えよと説いている。これはまさしく浄土の教えである。
さらにお釈迦様は、弟子たちに「私の言葉を信じて、極楽浄土に生まれたいと一心に願いなさい」と説き、弟子たちが心から喜び、お釈迦さまに感謝してその場を去ったところで終わっている。
時宗では浄土三部経の中でも、この『阿弥陀経』を最も重んじている。
文字通り夜通し個人の別れを惜しむ時間である。遺された者にとって、まだまだ死を受け入れ難いという場合も多い。
親族があちこちに離れて住んでいるのが当たり前の今日では、近くに住む親族だけでまず「仮通夜」を営み、葬儀の前日、遠方から駆けつけた親族や親しい知人のために「本通夜」が営まれる。夜通しではなく1~3時間程度で終わる「半通夜」が主流である。
本来、家族や親族が故人を極楽浄土に送り出すための宗教儀礼で、僧侶が故人を仏の世界に導き入れることを「引導を渡す」という。
一方、告別式は生前故人と親交のあった広い範囲の知人らが最後の別れを告げる式典で、宗教儀礼ではなく、社会的なセレモニーである。自由民権運動で有名な明治時代の思想家・中江兆民が亡くなった時、遺言に従って宗教色を排した告別式が行われたのがルーツとされている。
何かとせわしない今日では、時間短縮のため葬儀と同時に告別式を行う「葬儀・告別式」が一般的になった。しかし、もともと主旨の異なる式典を同時に行うことへの抵抗感がないわけではない。
親族で「密葬」を営み、一般向けには「偲ぶ会」、「お別れの会」を営むというスタイルが増えてきているのは、葬儀と告別式を本来の目的通り別々に行おうという回帰の動きとも考えられる。
戒名は、死後に授かるものとして知られているが、本来は、生前に授かるものである。
戒名とは、仏教に帰依する僧侶や信者が、受戒した際に与えられる名前のことで、仏教徒の証ともいえる。仏道を求め、戒律を守るため受戒した者に与えられるが、死後につける戒名が一般的なのは、仏教国の中でも日本だけである。
死者が戒名を授かるようになったのは、室町時代以降のことで、一般の人が死後に戒名を授かるのは、僧侶の資格で浄土へ旅立つことができると考えられてきたからである。「僧としてあの世に行けば極楽往生が叶う」と信じ、一般の人も戒名を受けるようになった。
では、戒名がないとどうなるのか?仏教の世界では、戒名がないと救済(成仏)の条件が欠くとされる。ちなみに、キリスト教やイスラム教ではそれぞれの信者名が必要である。つまり、仏教徒として救いの世界に入るためには戒名が必要なのである。
浄土門 時宗 光明寺では、戒名授与に、基本的にはお布施はいただいていない。
法事などで僧侶に読経をお願いするとき、あるいは戒名を授かるときなど、お寺へ渡す謝礼の一般的な呼び名と考えられている「お布施」。いくら包めば良いのか?という相場にばかり目がいきがちだが、本来はもっと広い意味がある。
おおまかに
・「財施(ざいせ)」
・「法施(ほうせ)」
・「無畏施(むいせ)」
の3種類に分けられる。
いずれも、慈悲の心で他人に施しを与えることで、金品や食べ物などを施す財施に限らず、教えを示す法施、身体で奉仕する無畏施もお布施にあたる。
お参りに行った時のお賽銭もお布施なら、葬儀や法要で僧侶に渡すのもお布施。ある程度の常識はあるが、基本的にには自分で用意できる範囲の金額で行えばよいことが多い。
お釈迦様の故事に、「貧者(ひんじゃ)の一灯(いっとう)」という話がある。多額のお金の布施をしたある王に対し、貧しい老婆が布施をした1本のロウソクのほうが価値があるとお釈迦さまが答えたというエピソードである。
自分にできる範囲でお互いに功徳を施し合う、それがお布施の本来の姿である。
金品や食べ物などを施すこと。
正しい仏法のあり方を広く伝えること(法を説く)。
人々の不安や恐怖を取り除くこと。困っている人を助けたり、安心させるなど、身体を使って慈悲や奉仕を行うこと。僧侶に限らず一般の人にも可能で、その行いそのものが布施にあたる。
浄土門 時宗 光明寺は、この布施本来の考えで宗教活動を実践しています。
納骨堂の使用目的は、墓地に埋葬するまで、一時的に遺骨を預かり、保管すること。霊廟(れいびょう)は、納骨堂と同じもので、寺院によって運営されている場合、こういった呼び名を使うことがある。納骨堂には、位牌などが安置できる仏壇型や、納骨壇が並ぶロッカー型などの形式がある。
最近は、墓地不足や価格の上昇などのため、納骨堂をお墓として使うケースが増えている。それにともなって、永代使用を目的とした納骨堂もみられるようになった。
墓地と墓石を購入するよりも、かなり安い費用ですむことがメリット。遺骨を土に埋葬することにこだわる人には不向きだが、最近では新しいタイプのお墓として、都心を中心に定着しつつある。
納骨堂には、墓地と同じように、民営や寺院が運営するものと公営のものがある。
規模や形式はそれぞれ異なるが、お堂の中に2000~3000の霊台が設けられたものが一般的である。公営のものはロッカー型が多い。寺院のものは上に仏壇があり、その下の部分に遺骨を安置するかたちのものが多く、納骨壇の大きさが選べること、管理に加えて、読経などを行ってもらえることが特徴。
契約のかたちも、各納骨堂によって違う。公営の場合は一年単位の契約のものが多く、霊園と同様に住民票や埋葬許可証などが必要。寺院では、33年間などの期限付きのところもあるが、永代使用できるところも多い。使用料、管理費なども寺院によってまちまちなので、直接問い合わせた方がよい。
浄土門 時宗 光明寺には、どなたでも納骨出来るお墓があり、永代供養も可能。自由な納骨堂もある。
春と秋に、それぞれ春分の日と秋分の日を中日として前後三日間の計七日間に渡って行われる。日本独特の仏教行事で、聖徳太子の頃にはじまったとも伝えられ、江戸時代には年中行事として定着した。
「お彼岸」とは、古代インドの言葉、サンスクリット語(梵語)の「パーラミター(波羅蜜多)」を漢訳した「到彼岸」からきている。
“迷いの世界”であるこの世「此岸(しがん)」から、“さとりの世界”である「彼岸」に至る、という意味である。つまり、お彼岸とは本来、さとりを開くために仏道に精進する行事なのである。
また、太陽が真東から出て真西に沈む春分の日と秋分の日は、沈んでいく太陽を通して、その彼方にある西方極楽浄土を思い浮かべる「日想観(にっそうかん)」という修行を行うのに適した時とされる。この日想観の仏事と、日本の祖霊崇拝(それいすうはい)とが結びついて、日本独特のお彼岸となったともいわれる。
したがって、お彼岸には先祖をしのび、自分の今あることを先祖に感謝して、供養の法要や墓参りをするとともに、自ら彼岸に渡ることが出来るように精進するものとされる。
例えば生き物をいつくしみ、心おだやかにして施しを行うとか、念仏を唱えるなど、信仰の実践をすることがすすめられている。
おはぎ、ぼたもちがつきものだが、この二つはどう違うのか?つぶし餡かこし餡かの違いだとか、もち米とごはんを混ぜる割合の違いだとか、地方による呼び方の違いだとか、いろいろな説がある。
実際は同じもので、ぼたもちはもともと「牡丹(ぼたん)もち」、おはぎは「萩(はぎ)のもち」であったといわれる。今では一年中売られていることもあって、混同して用いられるようになったが、本来は牡丹の季節・春のお彼岸に供えるのはぼたもちで、萩の季節・秋のお彼岸に供えるのがおはぎである。
昔は砂糖も米も大変貴重なもので、それを先祖に供えて供養するとともに、多くの人に分け与えることは功徳を積むことだったのである。
浄土門 時宗 光明寺の彼岸会は、春秋の中日に営まれる。
もともと「季節の移り変わるとき」という意味で、立春、立夏、立秋、立冬のすべてを指した。今は、立春の前日だけを指し、全国各地で厄払いの行事が行われる。
家庭では、戸口に鬼の嫌う鰯(いわし)の頭やにんにくなどの臭気のあるものを添えた柊(ひいらぎ)の小枝を挿したり、「福は内、鬼は外」と唱えながら豆をまいたりして、悪鬼悪霊(あっきあくりょう)を追い払う。
節分の夜には、各地の寺社でも、災難厄疫を追い払う、「追儺(ついな)」の行事が行われる。「追儺」とは、「鬼やらい」「厄神送り」などとも呼ばれ、災厄にみたてた鬼に“魔目(まめ)”“魔滅(まめ)”に通じるとされる豆をまいて追い払うこと。この豆まきは江戸時代から民衆に広まった。
成田山新勝寺の節分会が名高いが、ここでは「鬼は外」とはいわず、「福は内」だけを連呼するのがしきたり。鬼を嫌って外へ追いたてたところで、外で悪事を働くかもしれない。本尊の不動明王は鬼を追い払わず、福に変えてしまう慈悲をもっているからだという。
お釈迦さま入滅の日とされる二月十五日に、お釈迦さまをしのんで行われる行事で、
・「涅槃忌(ねはんき)」
・「仏忌(ぶつき)」
・「常楽会(じょうらくえ)」
とも呼ばれる。
仏教行事としては、「灌仏会(かんぶつえ)」「成道会(じょうどうえ)」とともに“釈尊の三大法会”として重んじられ、各宗派で行われている。
長く伝道の旅を続けていたお釈迦さまも、八十歳を前に自らの死期をさとる。最後の説法に旅立ったお釈迦さまは、クシナガラの郊外に至って、それ以上動けなくなる。そこで弟子の阿難尊者(あなんそんじゃ)に沙羅双樹(さらそうじゅ)の間に床を敷かせ、頭を北にし、西に向いて横たわる。集まった人々や弟子たちの嘆き悲しむのを慰め、精進を論して、その夜半に静かに涅槃に入ったという。
「涅槃会」の法会には、お釈迦さまの入滅の様子を描いた涅槃図を掲げ、『遺教経(ゆいきょうぎょう』などが読まれる。涅槃図には、沙羅双樹の間に横たわるお釈迦さまと、集まった人々や弟子たち、天竜鬼畜が描かれている。人はみな嘆き悲しみ、鳥獣までが泣くなかで、安らかなお釈迦さまのお姿が心を打つ。涅槃会が広く行われるようになったのは、涅槃図によるところが大きいとされる。
お墓の相続とは、墓地の使用権を受け継ぐと同時に、法要などの施主の立場を引き継ぐことにもなる。
誰がこれを継承するか、民法では「慣習に従って先祖の祭祀(さいし)を主宰すべき者がこれを承継する」となっている。
普通、配偶者か長男が承継者となるが、何らかの事情で承継できないなど、話し合いで決められないときには、家庭裁判所で決定してもらうことになる。
また、長男に代わって次男が承継したいという場合は、承継権の優先順位の上の者の同意がなければ、次男は承継することはできない。(但し、諸事情により例外もある。)ほかに生前、遺言によって指名しておくこともできる。
なお、血縁のない者は、たとえ家族同然の付き合いがあったとはいえ、お墓の承継をすることはできない。(但し、諸事情により例外もある。)
跡取りがいないため、他家に嫁いだ娘がお墓を承継したいという場合も、基本的に承継することはむずかしい。永代供養の手続きをすることが一般的である。
承継者は墓地の管理者に届け出をしなくてはならない。菩提寺の墓地の場合は、檀家としての役割も果たす。
※上記は一般的な場合で、まれに例外もある。
四月八日のお釈迦さまの誕生日を祝う行事で
・「仏生会(ぶっしょうえ)」
・「釈尊降誕会(しゃくそんこうたんえ)」
・「浴仏会(よくぶつえ)」
・「龍華会(りゅうげえ)」
ともいわれ、仏教各宗派共通の行事として、全国各地で行われている。一般には「花まつり」の名で親しまれている。
お釈迦さまの誕生については、さまざまな仏伝があり、生年も紀元前466年とも564年ともいわれる。
それらによると、お釈迦さまは、ルンビニーの花園で摩耶夫人(まやぶにん)の右わきから生まれ、すぐに七歩あるいて、右手で天を、左手で地を指し、「天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)」と宣言したという。
産道を経ずに生まれたということは、凡夫とは違った偉大なる聖人を意味し、七歩あるいたということは、六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)を流転しつづける輪廻を超越した存在であることを象徴しているとされている。
さらに、お釈迦さまの誕生を喜んだ竜王が、甘露を注いで沐浴えさせたという伝説もある。その故事にならい、お釈迦さまの誕生仏に甘茶をかけて祝う。甘茶を持ち帰って飲んだり、この甘茶に墨をまぜて雷除けや害虫駆除にするという風習もある。
灌仏会には、各地の寺院でルンビニーの花園に見立てて花を飾った「花御堂(はなみどう)」に、天と地を指したお釈迦さまの誕生仏を安置して法会を行い、参拝者も仏頂に甘茶を注いで祝う。
浄土宗系の寺院で、10月または11月15日の夜を最後として10日間の昼夜、現代では3日間の昼夜前後に渡って行われる念仏会を「十夜法要」あるいは「十夜念仏」という。
略して「十夜」、「お十夜」とも呼ばれる。
「無量寿経」というお経に出てくる「ここにおいて善を修すること十日十夜すれば、他方の諸仏の国土において善を為すこと千歳するに勝れり」という一節に基づいたものといわれる。
浄土門 時宗 光明寺の十夜大法要は、基本的に11月の第2土曜日の日中から、夜の永代供養経、翌朝の小豆粥供養からの結願法要まで毎年勤修される。
「報恩講」とは、もともと仏教寺院で祖師への報恩(教えに対して感謝すること)のために行われる法会をいうが、浄土真宗の開祖・親鸞上人の忌日に営まれる法会として知られている。
・「御七夜(おしちや)」
・「御正忌(ごしょうき)」
・「御講(おこう)」
・「御霜月(おしもつき)」
とも呼ばれる。
浄土真宗では最も重要な法会とされ、親鸞上人の忌日、旧暦11月28日を期して八日七夜に渡って盛大に行われる。期日は各派によって違うが、毎日、晨朝(じんちょう)法要、日中法要、逮夜法要が営まれ、お説教の場も設けられる。
浄土門 時宗 光明寺周辺では、上記の「十夜法要」と同じ時期に浄土真宗寺院で「報恩講」が営まれるので、同じ趣旨の法会と思われがちだが、まったく違う趣旨の法会である。
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